2017.09.26

PHILOSOPHY

描いた看板は4000枚超! 青梅の映画看板絵師-久保板観さんにインタビュー

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2016年に公開された新海誠監督の『君の名は』が、SNSによる爆発的な情報拡散で話題に上ったことは記憶に新しくない。『君の名は』に限らず、今日においては様々な作品において、出演する俳優のコメントや予告編のVTRが公開前にテレビやSNSで流され、映画の周知と共に期待感を高める効果を生み出している。
 
戦後、生活の復興と共に更に発展していった映画産業。1950年代前後の街にはいくつも映画館があった。当然のことながら、携帯電話もパソコンもSNSもない時代、映画の情報を伝えるのはスチール写真と、映画館の周辺に置かれた手描きの看板。
 
そんな看板に魅せられ、映画看板絵師を志した当時中学1年生の久保板観(くぼばんかん)さん。全盛期には1週間に7〜8枚の映画看板を描いたという。現在も制作を続ける数少ない映画看板絵師だ。今回はそんな板観さんに、映画看板を描き始めた経緯や映画に対する想いを伺った。
 

映画看板絵師 久保板観さん

 
東京都・青梅出身。
中学時代から映画看板絵師を志し、卒業後半年間の修行を経て映画看板絵師に。全盛期には青梅にあった3館全ての映画館で看板を描いていた。現在も看板工房を営む。
 
 

映画看板との出会い

 
ーー映画看板を描き始めたきっかけは何でしょうか?
 
中学1年生の時に青梅大映(注:現在は閉館している青梅の映画館)から150mくらいの距離に住んでいて、映画館の周りを歩くのが好きだったんです。映画を観られるお金はないから、外に貼ってあるスチール写真や手書きの映画看板を見ていました。毎日その看板をみているうちに絵に魅力を感じるようになって、自分でも描いてみたくなったんです。
 

-青梅駅周辺に飾られた看板

 
それから、映画の看板を破いて持って帰ってきて、(注:当時の映画は1週間で新しいものになるため、看板も使い捨て。その映画の最終上映日に破いて持って帰ってきたのだそう。)研究して、中学校から帰ってくると毎晩絵を描くようになりました。
 
ーー中学校卒業後はどうされたのでしょうか?
 
あまり勉強が得意な方ではなかったから、高校へは行かずに映画看板を描きたいと思って、自分の描いた作品を映画館に持って行きました。昔は映画館というのは沢山お客さんが入っていましたから、映画の仕事をすれば一生楽にして暮らしていけると思ったんです。その時はね。
 
ーー映画館に持って行って、そのまま採用されたのでしょうか?
 
いや、最初は断られてしまいました。絵しか描けなかったから。都会の方では看板の絵と字(映画タイトル)は分業制だったのですが、田舎の方では映画館もそこまで大きくないから絵も字もひとりで描かなければならなかったんです。「これではまだ無理だよ」と言われてしまいました。
 
ーー字は字でとても難しそうです。その後どうされたのでしょうか。
 
その後、青梅から5駅離れたところにある福生で、映画看板を描いている看板屋さんがあるという話を聞いて、そこに弟子入りしました。ただ、絵も字も一度も教えてくれませんでしたね。絵と字は目で盗んで、見よう見まねで覚えて、仕事から帰ってきて家で練習するという生活を続けて、半年で看板屋を辞めました。そして再び映画館に自分の制作した映画看板を持って行ったんです。当時は映画看板をうまく描く人が吐いて捨てるほどいたのですが、私の場合はまだ若いし、そこまでうまくなかったから「材料費だけもらえれば良い」という勢いで持っていって、描かせてもらえることになりました。16歳の後半のことです。
 

-制作スペース

-制作スペース

 

映画看板絵師として働く

 
ーー映画看板絵師として働き始めてからはどのような生活を送っていたのでしょうか?
 
ほぼ材料費だけもらう形で描き始めたので、毎日他にアルバイトをしなければなりませんでした。昼間は映画館のフィルム運びやポスター貼り、ペンキ塗りの応援に行ったりして、夜は映画の看板描き。映画は好きだったけどほとんど観る暇はなかったですね。寅さん(注:1969年に第1作が公開された『男はつらいよ』シリーズ)も最近になって初めて観ました。
 
ただ、最初の頃は青梅大映だけの看板を描いていたのですが、2、3年後には青梅にある3館全ての映画館で看板を描かせてもらえるようになりました。(注:現在は3館とも閉館しており、青梅に映画館はありません。)毎日1枚のペースで看板を描き続けました。
 
ーー仕事の日々だったのですね。実際に何枚ほど映画看板を描いたのでしょうか?
 
4000〜4500枚ほど描いたのではないかと思います。1週間に多い時で7〜8枚、それが毎週ですから相当な枚数になりますね。
 
ーーいちばん大変な作業は何でしょうか?
 
私の場合は少し独特な制作方法で、絵が乾かないうちに顔を仕上げなければならなかったので、綺麗に速く仕上げるということが大変でした。
 
ーー当時制作した看板は残っていますか?
 
いや、使い捨てだから現役のものは日本全国探しても残っていません。1週間経つと上から紙を貼ってまた看板を描く、の繰り返しで分厚くなると剥がして燃やしていました。
 
 

映画看板への想い

 
ーーなんとなく勿体無いという気がしてしまいます。これまで描いた看板の中で印象に残っている看板はありますか?
 
初めて見た映画看板が大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)の丹下左膳(たんげさぜん)で、それがかっこよくて看板を描こうと思ったんです。だからその看板を描いている時がいちばん楽しかったですね。(注:『丹下左膳』は林不忘の新聞連載小説を原作とした時代劇映画。)
 
ーー看板を描いていたら映画を観たくなりませんでしたか?
 
頭の中には「描かなければならない」という使命があったから、あまり観たいとは思いませんでした。ただ、描いていると何となく映画の世界に入ったような気になってしまうんです。だから観てなくてもスターの顔を描くだけで満足してしまっていたような…。
 

-青梅駅周辺に飾られた看板

-フランスの文化誌に掲載されたことも

 
ーーメディアでは「最後の映画看板絵師」という取り上げられ方をしていますが、いかがでしょうか?
 
描ける人は多分(他にも)いると思うのですが、描いても飾る場所がないから描かないんですよね。描けたとしても75歳以上で高齢になりますから、「まだ元気で描けるよ」という方は少ないのではないでしょうか。(板観さんも75歳とのことでした。)
 
 

終わりに

 
1950年代後半、日本の映画ブームには陰りが見え始め1964年の東京オリンピックの影響でテレビが普及し、時代は映画からテレビへと移り変わっていく。そして今日、映像の歴史は再び大きな岐路を迎えている。
 
青梅の街には板観さんが後年制作した看板が至る所に飾られている。今も好きだと話す邦画のほか、頼まれて描いたという「ティファニーで朝食を」をはじめとした有名洋画など、昭和中期を経験していない者さえも包み込むような看板の数々。「古き良き時代」に確かに存在した「映画看板絵師」の姿を私たちは忘れてはならない。

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